幼少期から半生のヒストリー

はじめまして、デザインスタジオRei の横川理恵と申します。

横川理恵がどのような人間なのか。
何が今の横川理恵を創ったのか。ヒストリーをまとめました。
長くなりますが、読んでいただけると嬉しいです。

〈目次〉
・農家の家でたくましく育った「幼少時代」
・仕事の基礎力を身につけた「会社員時代」
・仕事・家事・育児に奮闘した「子育て時代」
・約3,200件のチラシを手がけた「フリーランス時代」
・人生を変えた3つの出会い
・のこりの半生をかけてやりたいこと

農家の家でたくましく育った「幼少時代」

長野県安曇野のド田舎で三姉弟の真ん中っ子として生まれました。

家は米農家なのでお米だけは食べ放題。
毎日、自家栽培の野菜とお米を食べ、搾りたての牛乳を飲んで大きくなりました。

学校までは片道3キロ子どもの足で約1時間の道のりを、雨の日も風の日も雪の日も、歩いたり走ったり道草したりしながら、毎日通いました。

そんな環境で育った私は、とにかく健康で丈夫。

背が高かったので、背の順に並ぶといつも一番後ろ。
名簿順でも「よこかわ」なのでいつも後ろの方。
いつでもどこでも大体、後ろの方からみんなの様子を見ている。
リーダーや「長」ではなく、「副」という役割を多くやってきました。
家族の中でも次女という立場。

今でも、集団の後方や少し離れて全体を見渡せる位置が落ち着きます。
リーダーとして先頭に立つことよりも後ろから支える、「長」よりも「副」、No.2、右腕といったポジションで、リーダーのサポート役やリーダーの指示でリーダーの代わりをするのが得意です。

一家で農業を営むわが家は、父が経営者で、母は家事育児をしながら手伝う従業員。
農家では、男性も女性も同じように働きます。役割は違いますが、仕事も家事も育児も同じようにやるのが普通。私も小さい頃から田んぼや畑に出て、子どもながらにちょっとした労働力になっていました。
そんな中で育ったので、「専業主婦」「定年退職」という概念はもっておらず、男女関係なく生涯現役で働くのがあたりまえと思っています。

また、母は男性と同じように働きながらも、自由になるお金も時間もありませんでした。
そんな母の姿を見て、私は、誰にも依存せずに自立して、強く、自由に生きたいと思い描くようになりました。

仕事の基礎力を身につけた「会社員時代」

東京の短大を卒業して、地元に帰り電子部品メーカーに就職しました。
入社してすぐに製造ラインに配属され、ベルトコンベアーで流れてくる部品を組み立て、次の工程に流すという単純作業に明け暮れました。

あれ? 事務職で入社したのに、私こういう仕事したかったんだっけ?

ですが、単純作業をいかに速くこなすかに楽しみを見いだし、それなりに勤めていました。
このことから、私は同じ事を淡々とやり続けることができるとも言えます。

製造ラインで1年過ごした後、営業所に配属になりました。
ここでは営業所内の経理と庶務を担当し、9年間勤めました。

事務仕事の中で、数字の羅列を見て間違い探し、電卓を叩く速さが鍛えられました。
また、簿記の知識はなかったのですが、現場の経理スキルが身につきました。
その他雑務で得たスキルは、後の仕事、事業主の下支えとフリーランス活動で役にたちました。

会社員のときに結婚し、子どもができ、当時ではめずらしい産休・育休を取得しました。
結婚しても会社を辞めず、産休・育休をとって仕事を続ける女性のロールモデルになったと思いきや、結局、子どもの預け先が見つからず、育休の途中で退職することになりました。

その後、短期の派遣で事務と秘書の仕事をしました。ここでも結局、子どもを長く預けることができず、辞めざるをえませんでした。派遣先の社長が惜しんでくださったのは、ありがたかったのですが。

仕事・家事・育児に奮闘した「子育て時代」

無職の状態が半年続きました。
家事と子育てだけで他になんにもすることがない。あんなにヒマしてたのは、生涯でこの半年間だけ。
「専業主婦」という概念のない私は、このままではヤバイ!と焦っていました。
そんなところに、夫が内職の仕事をもってきました。
印刷物の版下を作る仕事で、写植の文字と画像のコピーの紙を切り貼りしてちまちま作っていました。

ところがすぐに、印刷データをパソコンで作るDTPの時代が訪れました。

DTPの仕事をするために、Macと周辺機器を200万円かけて揃えました。
DTPに関してはなにもかも初めて。Macの電源の入れ方もマウスの動かし方もわからない、印刷の知識もデザインの知識も全くない、ゼロからのスタートでした。
内職で細々と稼ぐ主婦が、やったことのない仕事のために、車よりも高い道具をリースで買うなんて。今考えると恐ろしい。

一方で、夫が会社を辞めて起業。私はデザイン仕事のかたわら、夫の下支えで経理と雑務をこなしました。

その間、子どもを2人目3人目と出産しました。

会社員と違って自営業ですから、当然、産休も育休もありません。
仕事も家事も育児も休みはありません。
子どもが寝ている間にどれだけできるか、どうしたら子どもが静かにしてくれるか、ばかり考えていたような気がします。片手で授乳をしながら片手でパソコン操作していたときもあります。保育園に預けるにも、3人分のお弁当と着替えなどの準備に送り迎え。
正直、その頃どう過ごしていたのか記憶も定かではありません。

そんなとき心の支えになったのは、子育て女性のオンラインコミュニティでした。

当時はSNSなどなく、会員制のサイトで「掲示板」という機能を使ってコミュニケーションしていました。インターネットを介して同じような立場でさまざまな人、環境、考えに触れることができるコミュニティの存在にどれだけ救われたかわかりません。

全国的なワーキングマザーと地域の子育てママの2つのコミュニティ参加し、運営スタッフを務めるほど深く関わりました。子育てが終わりコミュニティは卒業しましたが、当時の仲間とは形を変えて交流が続き、一緒に仕事をする機会もありました。

そんなこんなで子育てしながら、デザイン仕事と夫の下支えで10年が過ぎていきました。

気がつくと、男性と同じように、いや、男性以上に働きながら、自由になるお金も時間もなくなっていました。子どもの頃、ああはなりたくないと思っていた、母と同じような立場に置かれていました。

そんな生活に心身すり減らし、病んでいきました。

いたって健康で丈夫だった私が、喘息になり、咳のしすぎで肋骨3本折れ、常に酸欠のため唇に色がありませんでした。栄養不良で爪が剥がれてボロボロ。ストレス太り。心も病んでいました。

このままでは死ぬ!

本能で感じた私は、やっと助けを求めることができました。
当時11歳、9歳、6歳の子3人を連れて家出を決行。
すったもんだを経て離婚し、資産マイナスからやり直しました。

以来、仕事も家庭も独立し、DTPのスキルを活かしてフリーランスで仕事を続けています。と言ってみると簡単ですが、心身ずたぼろから立ち直るのに3年かかりました。

離婚を決意して独立できたのは、友人・仲間からの情報と応援があったからです。
多くの人に支えられてこそ自立でき、さまざまな人から得られる情報と知識が力となることを思い知りました。

もともと人に頼ることが苦手な私ですが。
頼ることができる人が多ければ多いほど、それだけ問題に対して「自分で」判断を下すことができる。そして、知識と情報があれば、それだけ視野が広がり、選択肢が増え、自ら選ぶことができる。
それが「自立」するということであり、自由を手にすることになるのです。

この体験と子どもの頃の母の姿を重ね合わせ、もし、母が外の人となんらかのつながりがあって助けてもらえれば、もう少し違う人生を送ることができたのではないか? とも思いました。

約3,200件のチラシを手がけた「フリーランス時代」

子育てしながら自宅で仕事ができるフリーランスという働き方。
それは憧れでもあり、理想的な働き方でした。

しかし、子育て中というのは、クライアントにとってリスクでもあります。

「子どもの病気や学校行事で休む人」「子育ての合間に仕事をするからフルでは働けない人」と認知されると、ママとして優遇される代わりに仕事を任せてもらえない恐れがありました。

シングルなので、夫の扶養範囲で……などと悠長なことを言っていられない事情もありました。

私は、「ママ」としてではなく、社会人、仕事人として任せられる仕事をしたいと思いました。

そのために「子どもを理由にしない」をマイルールにし、「子どもが…」という言葉を封印しました。

子どもが病気のときも、運動会のときも、卒業式のときも、仕事を休む理由に決して「子どもが…」を口にしませんでした。
時間を何に使うかは自分が決めること。子どものせいではなく自分次第。自分が持つ時間の中でできうる限りの調整をしました。

長いつきあいのクライアントと雑談の中でぽろっと出た言葉から、え? 子どもいるの? とびっくりされたこともあります。

下請けフリーランスという立場には、社内の正社員ではできない仕事、つまり、勤務時間外を使わないと回らないような案件ばかり回ってきました。例えば、金曜日の夜に原稿が入って月曜朝までに出して、というような。夜21時過ぎに指示があって翌朝9時までに出して、ということが普通にあります。

年中無休24時間態勢で対応していたので、私はいつ休むの? いつ寝るの? という状態でした。
それでも、仕事をもらえることがありがたかった。
なんでもやります!という気持ちで、基本、依頼される仕事はなんでも引き受けました。

こうしてフリーランス23年。
手がけた案件は、主にチラシ制作を約3,200件にのぼりました。

人生後半を変えた3つの出会い

憧れでもあり、理想的な働き方。
ただし、夜昼なく、プライベートも仕事もいっしょくた、在宅ワークで引きこもり状態。
そんな生活に疲弊していきました。
半生過ぎて、このまま年をとっても続けられるのかなあ……、とぼんやり考えるようになりました。
そして、違う働き方を考え始めました。
違う働き方といっても、引きこもり生活が長くなると、他に何ができるのか、何をやりたいのかよくわかりません。

今までの仕事に付加価値をつけよう、もっと価値のある人間になろうと考え、オンライン講座やセミナーに行って勉強をしました。

自分の強みは何?本当にやりたいことは何?を探して、タイプ診断、占い、スピリチュアル系で自分探求にはまりました。

どこに行ったらいいのか、何をしたらいいのか、あれこれ手当たり次第やって迷走していました。

そんな中で私を大きく変えた出会いがありました。
それは、

  • 門鑑定
  • マスターコーチング
  • コミュニティ

です。

門鑑定で生まれもった資質・能力を知り、
コーチングで後天的に身につけた思い込みと行動パターンに気づき、
コミュニティを実践の場として行動し、
人生のさまざまな選択肢を増やし、可能性を広げることができました。

迷走の中での出会いによって、本当の自分、本当にやりたいことに気づいていきました。

門鑑定との出会いはこちら

コーチングとの出会いはこちら

コミュティについては、別の機会にゆっくりお話しするとして。

のこりの半生をかけてやりたいこと

幼少期から半生の経験と、人生を変える出会いがあって、
今言えることは、
私は、「自分の人生は自分のもの」ということを大切にしたい。
誰もが安心できる居場所をもって、自分らしく自分の人生を生きられる場を増やしたい。そして、それぞれが自立して、お互いの人生を認め大切にしあえる関係を増やしたい。
そのために、「安心安全の場づくり」を使命として、私ののこり半生をかけようと思っています。

具体的には、以下3つを柱に活動していきます。

  • 自分らしく自分の人生を生きるために個人のサポート
  • よりよい社会を創る事業主のサポート
  • 人生の選択肢と可能性を広げるコミュニティづくり

具体的なサービス内容はこちらです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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